信じる?信じない?どっち?

地震の影響でジムのマシーンが何台か点検中で使用禁止になっていて、ちょっとフラストレーションを感じた青園シュウです。

先日たまたまネットテレビABEMATVの「アベプラ」と言う番組を見たのですが、その時のテーマが「出家とは?信じる、は必要か?」と言うテーマで、私の母方の実家が曹洞宗のお寺と言う事もあり、ちょっと興味深いな、と思い見ました。

信じるものは何ですか?」と言う意識調査では、2000年の1位が「人の善意」2位「愛」3位「運命」・・・9位「宗教」となっており、20年たった2020年ではどう変わったかと言うと、1位が「自分」2位「人の善意」3位「お金」・・・11位「宗教」と変化した様です。

自分が一番気になったのは、1位の「自分」と言うのは、どう言う意味でそう思うのか?が深堀されていない気がしたのでちょっと引っかかりました。

実は人間の脳と言うのは、元々あらかたの事は信じる様に出来ていて、理由は、そうでなければ集団社会の中では生きていけない部分があるからなんです。

例えば、外食する度に、このレストランの料理には毒が入っているかも?とか、あの車がこちらに突っ込んでくるんでは?とか・・・本気で考え始めたらどうでしょう?何も行動できなくなってしまいますし、精神が持ちませんよね。ある程度の事は人間は無条件で信じる様にもなっているんですね。

なので理由の無い無差別なテロや通り魔の事件を見聞きすると、その暗黙の了解的な常識や安心感が崩されたと感じ、我が身にも起こりうることでは?と、通常とは違う、不安定でそこはかとない恐怖を潜在意識も強く感じるんですね。

そもそもなんですが、脳が強く「信じる」と思うまでのプロセスは、まずその対象の物事を理解して受け入れ、分析したり精査し、その上で「これは信じる」「これは信じない」と振り分ける作業を毎回必ず行っている訳です。

いかなる事であっても、一旦はまず理解するために受け入れないといけない訳で、意識はしてないかもしれませんが、潜在意識下では毎回その作業をしているわけです。

問題は、それが似非理論であっても、詐欺であっても、まずは一旦受け入れないと判断がつかない・・・だから詐欺が減らない・・・「自分を信じる」と言う思考は、それ自体は悪い事ではありませんが、逆に言うと、自分が一旦は受け入れたのだから何かしら信じる要素があるのかも?⇒信じられる部分はどこだろう?⇒自分が信じたのだから確かだ!、と言う思考の流れがいつの間にか出来てしまう怖さもあるのです。

真面目で頭が良く、物事に真摯に対応する人ほどその傾向が強い。昔あったある新興宗教で、信者や犯罪に加担した幹部に高学歴の若者が多かったことに、世間は「何で?」と疑問視しましたが、これを考えればそれほどおかしなことではないと理解出来ますよね。

前にも書きましたが、左脳で理論的に考えすぎるとこれが起きやすい。右脳の感覚や体験、体感もバランスよく取り入れる必要があり、やはり頭だけではなく、五感もちゃんと使うことが必要なんですね。

信じる」と一言で言っても色々な側面があり、1つの思考に執着しない事、常に疑ってみる事、情報をアップデートすることも大切なんだと思います。

番組の中で、Twitterでバズる僧侶として紹介されていた松崎智海さんと言う方が「何かを信じることは、杖を持って歩く事」とおしゃっていて、それが腑に落ちました。基本は自分の足で歩くけど、何かの時や、疲れたり、足が弱ってきた時に杖は持っていた方が安心・・・正に「転ばぬ先の杖」と言う事だと思います。しかし杖に力をかけすぎても歩きにくいとも。

松崎さんは宗教や信仰の事を「」とおっしゃていたのだと思いますが、杖は「占い」であっても良いし「信用する人からの意見」でも良いし「自分の潜在意識からのメッセージ」でも良いと思います。

あなたが頼れると思う『パートナー』がそばにいる事が大事なのではないでしょうか?

あなたも、頼れる『杖』を見つけてみませんか?